やり甲斐があったので断捨離の意味について考えた
断捨離断捨離言うけれど
断捨離キャンペーンについて書いてきましたが、やってきたことを平たく言えば大掃除です。
不用品の処分を大掛かりにやった、という感じです。しかし、大掛かりに取り組んだ大掃除というのはとても気分が良く物理的な変化と内面的な変化があります。
内面的な変化こそが断捨離の醍醐味なのではないかと思います。
なぜならば、断捨離を始めるにも精神的なエネルギーや決意というマインドセットが必要であり、断捨離を終えた後の精神的な昇華についても見落とすことはできないと考えます。
Wikipediaによると
断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
断:入ってくるいらない物を断つ。
捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。ヨーガの行法が元になっている為、単なる片付けとは一線を引く。
(引用ここまで)
というように、精神的な解放活動が核となっています。
その精神的な部分にフォーカスした断捨離について書いていこうと思います。
断捨離を始める時に
断捨離の断は、断ち切るの断だそうです。
私は勘違いをしていて、決断の断だと思っていました。いるかいらないかを決断する、意思決定の断という気持ちでした。
意思決定決断し→捨てる→物と執着を手放す
これが私の断捨離でした。
その正式な断、断ち切る事はとても難しいことだと手離しながら気がつきました。
断捨離の中で私が一番苦手なのが断です。
今回のキャンペーンでも多くを捨てましたが、とにかく収納スペースがなかったので収納グッズを買い足しました。増えたものもあるのですが、必要なものだったと割り切って現段階での断捨離としていこうと思います。
断ち切る事の難しさ
思えば自分が嫌いな人からも好かれたいと思うような弱い心を持っている私は、断ち切る事への恐怖があります。
人間関係なら断ったら嫌われる、孤独になるという不安があります。
これは貧乏くじを引きやすく、ズルい人にいいように使われてしまいます。このような考えはやめなくてはならないと思ってはいるもののなかなか勇気がなく断ることができませんでした。
この考え方があるからこそ、物がどんどん増えていくのです。
持っているから要らない、まだ使えるから要らない、似たものがあるから要らないと断ち切っていかなくては処分したそばから物が溢れていきます。
ストレスと同じで、悪いものはなるべく内に入れないようにします。それが断であり、内に入れるものと入れないものを判断する断の力も必要となっていきます。
群れで生きることをやめ群れが生き残るのではなく、自分こそが生きていくという意思が断つ究極です。
群れの中は暖かくて安心ですが、敵が来た時に自分が生贄にされる順番がいつか来るかもわかりません。
だからこそ孤独を恐れてはいけません。
捨てる時には心を痛めない
入るものを断つことが出来るということは、未然に防ぐということです。
しかし、事が起きてしまったならば問題を解決しなくてはなりません。
捨てる、とは状況を判断して問題解決をしていくという事に似ています。
例えば、あれもやりたいこれもやりたいでは中途半端になります。
やりたいことを絞り、やらない事を決めて削ぎ落としていくのが捨てるということのように思います。
高かったから、思い出があるからという過ぎ去った感情を中心に考えていると最も大切な今現在と未来を失う事になります。
買った時がピークで、楽しませてもらった、いい気分になった物には感謝をして手離していくことにしました。
特に簡単に手離せたのはいい思い出がないものについてでした。あっさり要らない物と判断することができました。
捨てるについては、腰を上げるまでが大変ですが勢いがつくと苦労しないで判断していけました。
捨てるか悩んだ時には、親友MちゃんにLINEを送って背中を押してもらう事も度々ありました。
気に入っているわけではない使っていないものは運気があまり良くない、高価でなければ新しい物には入れ替えて風通しを良くして運気アップをさせようという感じでした。
執着を手離すのは割と簡単だった
自身の執着を抱きやすい性格についてはかなり早い段階で分かっていたので都度「何故手離せないのか?」「何故執着するのか?」について考えて生きてきました。
まだ確信に迫ってはいないけれど「執着は良くない」という考え方に従うようにしています。
何故執着するのかという原因に向き合うと執着を昇華することができるようになりました。
例えば、モテない私は過去にお付き合いした男性との思い出を後生大事にしてきました。当然大断捨離キャンペーン中に何度も元彼の面影がチラつく物が出てきます。
今までは捨てられず奥の方奥の方へ隠して所持してきましたが、全て捨てることで改めて妊娠出産への強い意志を持つ事にしました。
もう精神的にも、状況的にも、過去の恋愛なんて不要でしかありません。
目に入ればエモいだけ。既婚の身にも後ろめたく、良い機会だったので全て処分致しました。皆さんお幸せに。
手離してしまえば何に対して執着していたのかすら忘れました。
何にといえば、容姿コンプレックに対する執着だったのかもしれません。うまくいかない全ての理由は容姿が良くないせいだと思い込んでいました。服を溜め込むのも同様でしょう。誤魔化そう隠そうとしていたのだと思います。
理由を見つけ出すことができ、昇華させることができました。
このように、手離しても案外大したことないので怖がらなくてもいいです。
過去の恋愛を手離しても相変わらず私はわたしでした。そもそもいつもいつでも内へ内へと関心が向いており、恋愛が中心である人生でもなかったような気がします。
その他なんとなく思うのは、高かったから手離せないものはお金への執着が見えます。お金に振り回されて前後不覚状態になっています。
好みへの執着は今現在の環境に合わせてリニューアルしていかなくてはいけません。
コンサバティブで美しい服もヒールも、走り回る小さな子どもを抱えていたら不相応で機能的ではありません。
しかし、男性は環境が変わることが女性に比べて少ないので同じ様に考えるのはいささか暴力的です。あくまでもこのブログは趣味で好きに書いている、主観のものです。
人間関係の執着は、外に飛び出して孤独を楽しむ勇気があれば捨てられます。
たくさんの人に囲まれている自分にホッとしているのは、なんとなく危険な感じがします。猫の様に通常時単独行動+不定期の猫会議という生き方に健全さを見出しています。意思決定はあくまでも自分が主体ですから、集団行動は思考停止です。
権威、名誉、肩書きが手離せない人は自分に自信がないのかもしれません。世の中で一番いらないものがそれのように思います。
とにかく、何故手離せないのか?何に執着しているのか?と向き合う事で、整理整頓の精査以外にも根源的な心のモヤモヤも解決するような気もします。
断捨離の終わりはいつか?
断捨離自体に終わりはなく、毎日細かく繰り返していく習慣や考え方のことです。
大掃除的な断捨離は期間やテーマを決めて取り組むといいと思います。ダラダラ片付けているうちに何をやっているかわからなくなります。
私の場合、とりあえず大型の不要品をかなり処分することが出来たので一旦終了します。
後は細かなものをどうしていくか日々考えて、まとめてある処分品コーナーをすっきりさせていこうかなと思います。
なんやかんやと片付けているうちに、季節もすっかり春めいてきました。またロードバイクのシーズンになってきたので、気分良くお出かけネタのブログも書いていけたらなと思います。