コウノトリは誰の前にも来るとは限らない後篇
前篇
コウノトリは誰の前にも来るとは限らない前篇
http://tamunojoyfulnabouken.hatenablog.com/entry/20180916/1537056017
私のことを嫌いになる人もたくさんいそうですが、人間の腹の中は人生幾度となく浮き沈みし愚かな失敗を繰り返しながらも反省し、それでも生きていくものだと思います。
失敗は取り返しがつかないけれど、それはもう心から反省して次頑張るしかないのです。いちいち死んでるわけにはいかないし、死んで詫びるくらいなら税金払って生きます。きっとみんなそうしてると思う。
これは私という人間のある特異な時期を切り取ったものです。
人の幸福を喜べないメンタリティ
後篇では主にメンタル面について書いていきます。
思うような結果が出ないと人の幸福を喜べなくなってきます。
3人も4人も産む人がいる中、なぜ自分は授からないのかという悲しみや苛立ちと人工的に与えられる体調不良を抱えて気晴らしに出かけても、目につくのは妊婦さんや赤ちゃんを連れた家族などを目にすればより感情が揺さぶられます。
また、3人も4人も授かっている方が言う「子どもが可愛い」という当たり前の何気ない発言すらも腹がたちました。
空腹で空腹で仕方がない今にも倒れそうな状況の目の前で、自分の好物を美味しそうに食べる様を見せつけられているようなやるせない精神的な飢餓を与えられるのです。
そんな混沌の中でも友人、知人からは3人目、4人目と妊娠出産報告を受けます。
一体なんなんだ、少子化なんて嘘っぱちだろというくさくさした気分で病院へ通っていました。
どうして私の心をえぐるのだ。幸せを見せつけてどうしたいの?
同い年のいとこは3人目を出産し、大家族で我が実家へ足繁くやってきます。
子だくさんは子だくさんの感覚で話すので、子どもがいないと遊べていいねとか好きなことできていいねと気軽に言ってくるのに殺意が湧くことを抑えられませんでした。
じゃあ遊べば?やりたいことやれば?ってそりゃ思うよ。親と同居してほとんど面倒も見てもらってるのにそりゃないよ。
こっちはもし産んだとしても、中重度認知症の祖母の世話で心身共に限界に近い両親に迷惑かかるのではと遠慮もしていて、正直祖母が亡くなるのを待ってたけど亡くなりそうにないのに生殖器の限界もヒタヒタと近づいて来てる恐怖と戦っているっていうのに!!!!!
腹も立つし真実を言うこともないので、子どもが嫌いだしやりたい事まだたくさんあるからと言い続けていました。
そんなわけあるか!
ほんと嫌い!付き合いたくない!疎遠になりたい!と、この手の方からわざと嫌われようとしたりもしてきました。
経験則ですが、細かい事は気にしない方(平たく言うと空気読めないタイプ)は私が子どもが嫌いだからと言ったならば不妊を疑うこともなく子どもが嫌いな嫌な女だとほとんどの割合で思って下さいました。
願ったり叶ったりでした。こちらこそ、あんたが嫌いだよ。
私がヘラヘラしながらも悩んで夫にも同様に当たっていたので、鈍感な夫も周りに嫁は子どもが嫌いだからと言っていたようです。
そんなわけあるか!!
破れかぶれ気分の私の事など誰も気にしない事がわかりました。
妊娠報告を行っている時にこんなことを言った人がいました。※バレ回避のためフェイク要素多少あり。
「夫さんからそう聞いたから間違いない、あなた子ども嫌いだったんでしょ。子どもいらなかったんだよね?でも心変わりしてよかったね」
晴天の霹靂だった私の気持ち。
侮蔑と最低限のフォロー。わざとか本能的か。それを聞いていたとして、わざわざ本人に言うか⁉︎という呆れ、またかという怒り。
破れかぶれで言ったことが一人歩きしてどんどん嫌な女と思われて噂されること。最悪でした。
そんなこと言わなきゃいいのにって?自分で蒔いた種の癖にって?
悩んで苦しんで行き場の無い気持ちを素直に出せる人はとても出来た人なのだと思います。
私はそんな出来た人ではなかったのです。そして残念な事に、私は誰にも夫にすらも真実の気持ちを話したことはなかったので破れかぶれの捨てゼリフが私の人格として実際に世間に出て行きました。
なぜなら、人は見下してバカにできる人を常に探して無意識に優位に立とうとする生き物だからです。それを律することができる人はほんの一部です。
子どもが嫌いな嫌な女だということを、誰も疑ったりしない味方もいない精神的な孤独は深くなっていきました。
どんな人だって自己中だ
自分から親友だ、大好きだと言っている人は慮れる方が多いせいか自然にしていても上項で書いたような気持ちになったことはありませんでした。
しかし、ほとんどの人は自己中です。口に出した事が真実だと思い判断します。
おそらく私の捨てゼリフを真実と受け止めたその人だって常に本心で話しているわけではないでしょうが、自分は棚に上げて人の事情には目を向けようとは思わないのです。
私だってそうでした。
自分がその立場にならないとわからないものです。
マタニティマークを付けていると嫌がらせをされるという話を聞いたことがあります。その気持ちが良くわかりました。
自分と比べて仕事ができないくせに、頭が悪いくせに、料理が下手なくせに、ブスのくせに、非常識なくせに、男に媚び売ってぶりっこのくせに、子どもばっかり作るのは得意なんだね!すごいね!とか思ってしまうのです。
それは簡単に妊娠できなかった私だけが悪いのでしょうか?
一生懸命勉強したって、大手企業に入ったって、無事結婚できたって、年齢、容姿も性格も、学歴も家柄も国籍もなんにも関係なくこればかりは絶対的に平等で絶望的に不平等なのです。
味方は必ずいる
私のような人は世の中に黙っているだけでたくさんいます。
守秘義務で具体的には言えませんが、様々な事情で子どもを持てない方たちが集まる会へも参加していました。
そこには私よりももっと深刻な事情を抱えて悩んでいる人たちがたくさんいました。私はいつもそこで泣いていました。
友人知人にも理解があり話を聞いてくださる方がいて、大きな問題も起こさず今日まで過ごすことができました。
理解者がいなければよその妊婦に腹パンしたり、赤ちゃんを連れ去っていたかもしれません。それぐらい私の心はヘラヘラした顔と「元気だよ」の言葉と裏腹にグズグズに病んでいました。
そんな本当の心に誰が気がついていたことでしょうか?
それから
とある事情から乳児院見学の機会があり、そこで保護されている赤ちゃんを抱っこしました。生まれて数週間で施設に預けられた赤ちゃんは、何にもわからないで私にだっこされていました。
私は首がすわっていない赤ちゃんの不安定な体から伝わる温かさに涙を堪えながらあやしました。
自分の子じゃなくてもこんなに愛しいのに。
もし自分の子がダメでも子どもと関わる事を見つけて関わっていこうと心に決めた瞬間でした。
そこから少し暗い感情に蓋をできるようになりました。悩んでいて答えが出る事ならば悩み続けるが、こればかりは本当に悩んでも何か特効薬があるとか法則があると言うわけではありません。
過剰に悩みに目を向けない事が1番の解決方法だと思いました。
年甲斐ないと思われたり、性格が悪く子どもが嫌いな嫌なやつと思われていた方が確かに気は楽でした。
自分の人格を否定される事よりもなにより不憫な境遇でかわいそうな人だと思われたくなかったのです。勝手に人をかわいそう扱いするな!という強がりのスパイラルが、同時に最も自分を苦しめているともわかっていました。
しばらくして、通い続けていた病院で妊娠がわかりました。
嬉しいというよりもショックでした。様々な事情の方たちと交流をしたことで、そこから一抜けする自分の後ろめたさを最初に感じていたからです。
妊娠はしたが
妊娠に対する負け意識が植えつけられてしまっている私は、嬉しいと言いながらしばらくは喜べませんでした。
ここまでの呪詛が自分に効いてきたかのようでした。
仕事に関わる最小限の人にだけ伝えていましたが、参加している教育ボランティアの皆さんにお伝えしてから気持ちが変わりました。
世界はあたたかかったんだなぁと、雪解けを感じました。
その後も最低限言わなければならない方に都度お知らせし、その都度自分はお母さんになるんだという意識が少しずつ芽生えると同時に呪詛も軽くなっていきました。
今でも様々な事情で悩んでいる方たちのことを思い出し、考えさせられる事も少なくありません。
しかし、今はお腹と共に大きくなる母性と知らない事だらけな新しいステージへの期待と不安でいっぱいです。
最後に
同じように苦しんでいる方がたくさんいるのに、自分がその立場になるまでは考えたこともありませんでした。
自分の場合、子待ち期間を除き単純に実治療期間が数ヶ月だったのは短い方だと思います。何年も何年も心身に与えられる苦痛に耐えている方がたくさんいます。
大声で言うような事ではないからみんな黙っているだけなのです。誰かにとっておめでたい事も誰かにとっては気が狂いそうな程に苦痛なことなのです。
表立って喜ぶなとは言っていません。ただ、その影で自殺を考えるほど殺意を覚える程苦しんでいる人の存在が確実にある、という事を身をもって知ったと言いたいだけです。
自分の体験からすれば、まず信じられるのは医者です。民俗学的、宗教的、呪術的観念の元で祈ったり願ったりする事よりもきちんと検査をして原因を突き止めて対処する事から始めるのが一番の近道です。
祈ることよりも根拠ある事をとにかくやり続ける事です。
お金がかかるかもしれません。仕事を辞めなくてはいけないかもしれません。そうであっても、本当に子どもを授かりたいと思うなら投資するしかないと思います。
しかし、お金もある程度は有限です。自子にこだわる時代でもありませんから、行政(児童相談所)やNPO法人が窓口になり特別養子縁組という手段もあります。
我が家も同時進行で特別養子縁組を検討していました。また、海外のNPO法人に話を聞きに行き代理出産も考えたことがあります。その時私は26歳でした。現在は残念ながら代理出産について法的に厳しくなって難しい状況がきています。
色んな方法はありますが、その方法を知って検討し一秒でも早く動かないといけません。
お金より何より時間はとても残酷です。
最終的に、夫婦2人だけで仲良く楽しく暮らしていくという選択も尊く素晴らしいものです。
もちろん結婚しないという選択も同様です。
私はこのつもりでした。しかし、突然言いようのない空っぽの寂しさが降ってきました。
自分が空っぽだからその部分にあったかいものを詰めて幸せになりたいという、変でもあり至極当然の気持ちになりました。
色んな形の家族があります。みんな幸せになろうとしています。
血縁関係があるということだけが家族の意味ではありません。むしろ、血縁関係がない家族の方がふざけた甘えがないだけお互いを尊重する必要があり、その姿はとても尊いようにすら思います。
様々な背景の元に生きているのだから、価値観を押し付けるのは良くありません。明るいところしか見ないで来れた人は、影があることを知りません。影を見ることができた事で私はかなり大人になれた気がします。
そして、このブログは大衆の存在を意識せず主観で書いてあるため意見はニュートラルではありません。
特に私はドがつく文系出身者で、根拠ではなく主観で表現する癖が非常に強い上にそれが持ち味というポジショニングを置いています。
誰に向けても書いておらず、自分のために書いているものを見たい人に見せているだけというスタンスです。
そのため無料で自由に読めます。
それについてとやかく言われる筋合いはありませんので、不快になられた方は以後のブログ訪問は二度とされずこちらと関わらないで暮らされることをお勧め致します。
むしろそんな方からは投げ銭いただきたいぐらいですってなところで。